明治期の社会運動家/田中正造

更新日:2021年11月30日

田中正造

田中正造は、天保12年(1841)、旗川村(現栃木県佐野市小中町)の庄屋の長男として生まれました。

明治11年(1878)、栃木県の区会議員に選出され、県会議員、安蘇結合会、県議会議長などを歴任し、明治23年(1890)には、第1回帝国議会で衆議院議員に当選しました。
 

足尾銅山の鉱毒問題を国会で取り上げ、明治34年(1901)には、死を覚悟で明治天皇に直訴し、社会問題にまで広がりました。

しかし、政府は谷中・利島・川辺の3村を潰し、遊水地化することにより問題の解決を図ろうとしたため、正造は悲痛な思いで谷中村に住み、地域住民と共に不休の活動を続けたため、利島・川辺両村(旧北川辺町)は遊水地になることが避けられました。
 

正義を貫こうとする正造は、谷中村の貯水池化に反対し、谷中村強制破壊後も残留民と共に村に残り努力を重ねましたが、大正2(1913)年に72歳でこの世を去りました。
 

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