元和の歴史

青い目の人形歓迎会開催文書

~元和小に渋沢栄一に関わるエピソードがあった~

【来る七月八日米国児童より寄贈青い眼のお人形歓迎会開催ニ付案内】

文書番号 小林(茂)家7218 年月日 昭和2年7月7日 出所 元和尋常高等小学校 宛所 小林賢太郎

これは、埼玉県立文書館の検索による項目見出しの一部です。おそらく小林(茂)氏(小林茂郎氏であろう)が、古文書として県に多数の資料を提出しているものの一つと思われます。(実際今校長室の棚に、小林氏から寄贈いただいたいくつかの資料がある)当時の校長、田代徳次(大正15年4月~昭和7年3月在任) 新井了一(昭和7年4月~昭和12年3月在任)のお名前が文書館の資料に記されているので、元和小学校の歴史に間違いないようです。その中の一つが、この「青い眼のお人形歓迎会開催」通知です。

9月10日(木曜日)加須市生涯学習課 岩渕さんより教頭先生に、「元和小に、渋沢栄一の青い目の人形についての資料が残っていないか」という問い合わせがあったとのことです。そこで、校長室と図書室を眺めてみると、当然ながらほとんど資料はありませんでした。岩渕さんには、関連の資料が無かった旨を報告して、その渋沢と青い目の人形の件について、もう少し詳しい内容を聞かせていただきました。

渋沢栄一の「青い目の人形」のお披露目会を催す元和小からの通知が、文書館にあるので、それに関わる資料が元和小にないかという文書館からの問い合わせだったとのことでした。私は、「青い目の人形」が何なのかわからないので、ネットで調べてみると、今流行の渋沢栄一が保護した、アメリカからもらった人形であることがわかりました。

1927年、アメリカから、日米の親善を願って約12,000体の可愛い人形が、太平洋を越えて日本に贈られたことを知っていましたか?その目的は、排日移民問題が過熱する日本とアメリカの児童たちの間に、友情交流を結ぶことでした。この人形交流を両国に呼びかけたのが、アメリカの宣教師シドニー・ルイス・ギューリック、そして日本側で人形の受け入れに尽力したのは、渋沢栄一でした。日本では、当時流行していた童謡の効果もあり、「青い目の人形」と呼ばれ人々に親しまれました。 (渋沢資料館HPより抜粋)

12,000の人形とありますが、文書館の大橋学芸員さんのお話では、そのうちの178体が当時埼玉県に寄贈され、今埼玉県内に現存しているのが、12体だそうです。(渋沢資料館のHPでは、全国で約300体現存しているとある)その178体の埼玉県にやってきた人形のうち一つが元和小にやってきたという事実が、歓迎会開催文書という文書から明らかだということになります。その後戦争に突入するにつれて、敵国アメリカから送られたものとして、大部分が処分されたとのことですが、おそらく元和の人形も処分されたと思います。(もし、どこかの倉庫に眠っていたら絶対捨てないでください。探すポイントは“青い目”です。)

埼玉県にどれだけの尋常小学校があったのか調べていませんが、今の小学校の数は約800ちょっとですから、178体が全部小学校ということもないでしょうから、きっと元和小は何かの理由で選ばれて人形をいただいたのではないかと考えられます。

戦前にアメリカとの親善のために人形をもらったこと、渋沢栄一が保護するために関わっていること、戦争により罪なき人形にまで人の憎しみが及んだこと、そうした歴史の中に今があり元和小があること、人形をもらって喜んだ先達たちの思いや目に浮かぶ様子、そうした戦前の人たちに思いを馳せる学芸員の人たちの熱意。「青い目の人形」はやはり私たちに何かを語っています。

(令和3年9月14日 記述)

文書館特別展示 元和小発文書公開

前回の「元和の歴史編1」で紹介いたしました。元和の届いた「青い目の人形」歓迎会の案内状を、文書館に行って見てきました。立派なガラスケースの入れてもらい、そのには「元和尋常高等小学校(現加須市立元和小学校)という説明札が付いていました。現存する実際の文書を読めるところだけ読んでみると、下記のように記されています。

   青い眼のお人形歓迎会開催致し候 御臨席の栄を賜り度 御案内申し上げ候

  昭和二年七月七日 元和尋常高等小学校

  小林賢太郎 殿

当時の小学校も、今と同じように、地域と共にあり、地域の人たちと交流していたことがわかります。「人形をもらったから見に来てください」ではなく、「お人形の歓迎会を開催する」という文面にも、「お人形」という書きぶりからも、当時の校長先生の思いが伝わってきます。

(令和3年11月1日 記述)

小林家水郷 ~過去の水害から学ぶ~

 元和小の南門を東に少し行くと、立派な長い堤防のような姿を目にすることができる。赴任当初、「なんだろう」と歴史の匂いがする建造物が気になってしかたがなかった。自転車で背伸びをしても、中が見えなかった。近所の方にお伺いして、「小林さん」ということはわかったし、今もお住まいの様子だったので、あまりのぞきこまないようにした。7月20日の埼玉新聞に、大きく取り上げられているのを目にして、やっぱりすごいものであることがわかった。皆さんは御存知だったのだろうか。

塚の大きさもさることながら、貧民救済による褒賞で、名字帯刀を許されていたというから驚きである。カスリーン台風のときに、150人が2,3カ月避難したことや、塚上まで30センチメートルで心神が止まったことなど、当時の危機状態をイメージするに十分なお話が残されるようだ。

こんな立派な遺産が地域にあることになんとも言えない不思議を感じる。近いので教材として見せていただくのはどうだろう。300年前築造ということだ。歴史は身近にある。

(令和3年7月20日 記述)

スイカ橋 稲荷木落排水路にかかる元和地域の橋

元和小の南門を出たところに元和川用水路があります。その用水路をたどっていくと、すいか橋にたどりつきます。なたばた公園の手前になります。地図を見るとその東は北下新井、西(元和小側)が琴寄ということになっています。すいか橋は、稲荷木落排水路(とうかきおとし)かかる橋です。橋の欄干下で、元和川用水が流れ込みます。欄干4箇所にボールの大きさの丸い造形物が載せられています。これがすいかに見えて、しゃれています。

グーグルストリートビューに2012年7月撮影の「すいか」が写っていて、丸い石であることがわかります。大きさがスイカ程度であるので、近所の方が「すいか橋」と呼んだのに乗っかって、新しい橋では、すいかに寄せた縞があります。

この橋が架かる“川”の名は「稲荷木落」とだそうです。すいか橋にも刻まれています。ネーミングだけでも心がひかれます。「稲荷」は稲荷神社の稲荷でしょう。そこから木を落としたのかもしれません。調べていくと元和の歴史にたどりつくかもしれません。

スイカ橋全景

新しい“スイカ”には縞が

元和川用水から合流

改修まえの“スイカ”

平成29年3月に掛け替えられる前の橋の様子。

「スイカ」に見えます。

スイカ橋を下校する児童2人

令和3年12月号「広報かぞ」 P3 掲載していたただきました。元和小の4年生と6年生だそうです。

(令和3年12月1日 記述)

元和の時計塔

平成末までHPトップにあった画像

平成31年に着任したとき、元和小のHPのトップは、この写真でした。どこを見渡してもないので、不思議に思っていたのです。おそらく、他の学校の画像と間違ってリンクしたのかさえ思いました。

あるとき偶然に、以前元和に勤務していた先生で、しばらく別の学校に勤務し、再び元和に勤めるようになった方が、「あそこに時計塔があった」と話してくれました。あのHPのあれだ・・・というわけです。

大いに気になるので、卒業アルバムを調べてみました。

平成22年度版 卒業アルバム

平成23年度版 卒業アルバム

校旗掲揚塔の南側にあった時計塔が、平成22年度版にはあり、平成23年度版にはありません。平成23年(2011年)3月11日に東日本大震災がありました。

これも震災を忘れないためにも、元和の歴史として刻みたいと思います。

(令和3年12月3日 記述)