斎藤与里略年表

更新日:2020年09月01日

 斎藤与里の略年表は次のとおりです。

斎藤与里略年表
明治18年 (1885年)   9月7日、埼玉県北埼玉郡樋遣川村(現・加須市)に父・春五郎、母・つねの次男(2男8女の10人兄弟の末から2番目)として生まれる。 本名は斎藤與里治。生家は代々裕福な農家である。
明治29年(1896年) 11歳 4月 私立埼玉中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)に入学する。
明治38年(1905年) 20歳 9月 亡兄の友人の紹介で鹿子木孟郎を訪ねて京都室町画塾に学ぶ。更に浅井忠の聖護院洋画研究所(後の関西美術院)に学ぶ。同門に安井曽太郎、梅原良三郎(後に龍三郎)がいた。
明治39年(1906年) 21歳 2月 師の鹿子木孟郎と共にパリへ遊学し、ジャン・ポール・ローランスのアカデミー・ジュリアンに絵画を学び、また、ソルボンヌ大学にも聴講する。
12月 アカデミー・ジュリアンに入学後7箇月目の競技会で12位に入る。 留学中の荻原守衛(彫刻家)と親しくなる。
明治40年(1907年) 22歳 セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マチスなど後期印象派やフォーヴィズムの絵画に新時代の芸術進路を見い出す。
明治41年(1908年) 23歳 9月 インド洋を廻って、横浜に到着。
明治42年(1909年) 24歳 10月 小石川雑司ヶ谷に住む。
明治44年(1911年) 26歳 4月 香川輝(鳥取県や佐賀県の知事などを歴任した人)の長女伏代と結婚。
明治45年/大正元年(1912年) 27歳 2月 長男誕生。
9月 この頃、個展のための会場捜しから話が進み、岸田劉生、清宮彬、高村光太郎、萬鉄五郎、木村荘八、バーナード・リーチらとフュウザン会を結成する。
10月 第1回フュウザン会展(15日~11月3日、銀座・読売新聞社3階)総数33名。
大正2年(1913年) 28歳 3月 第2回フュウザン会展(11日~30日、銀座・読売新聞社3階)総数17名。
7月 この頃フュウザン会を解散する。
大正3年(1914年) 29歳 2月 長女誕生
大正4年(1915年) 30歳 10月 第9回文展(4日~11月14日)、「朝」が初入選。
大正5年(1916年) 31歳 10月 第10回文展(14日~11月20日)(「収穫」が特選となり、当時の後援者であった細川護立候爵が同作品を買い上げる。
大正6年(1917年) 32歳 1月 次男誕生
大正8年(1919年) 34歳 9月 この秋、創刊された大正日日新聞大阪本社に学芸部次長格として迎えられる。
大正13年(1924年) 39歳 3月 牧野虎雄、熊岡美彦、高間惣七たちと槐樹社を創立。
6月 大阪美術学校(校長・矢野橋村)の設立に協力し、洋画部教授となる。洋画、西洋美術史、フランス語を担当する。
昭和2年(1927年) 42歳 10月 第8回帝展(16日~11月20日)「水郷の夏」が特選。
昭和3年(1928年) 43歳 10月 この年から帝展無鑑査となる。
昭和6年(1931年) 46歳 12月 槐樹社解散となる。
昭和7年(1932年) 47歳 5月 熊岡美彦、高間惣七たちと東光会を創立。
昭和9年(1934年) 49歳 10月 第15回帝展(16日~11月20日)。この年帝展審査員となる。
昭和11年(1936年) 51歳 11月 東京都豊島区に家を新築する。
昭和20年(1945年) 60歳 5月 戦火をのがれ東京から郷里の加須町樋遣川へ引き揚げ、住居を「草香居」と名付ける。
昭和21年(1946年) 61歳 この年、郷里加須で東光会埼玉支部「草光会」(会長・松永敏太郎)を結成する。
昭和26年(1951年) 66歳 10月 第7回日展(28日~11月28日)。日展参事となる。
昭和33年(1958年) 73歳 2月 第1回埼玉文化賞(埼玉新聞社制定)を受賞する。
昭和34年(1959年) 74歳 2月 日本芸術院賞恩賜賞候補となる。
4月 加須市名誉市民第1号となる。
5月 3日午後3時50分心臓麻痺により急逝。

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