近代洋画の旗手/斎藤与里の紹介

更新日:2020年09月01日

 斎藤与里について紹介します。

さいとうよりの肖像写真

  【さいとう より】(1885年~1959年)

 本名 齊藤 與里治(よりじ)。洋画家。

 斎藤与里は、1885年(明治18年)に現在の加須市下樋遣川に生まれました。父は村議会議員を務めた村の名士で妻、伏代(鳥取県・佐賀県知事などを歴任した香川輝氏の長女)との間に二男一女を授かりました。
 1905年(明治38年)京都に出て、浅井忠氏、鹿子木孟郎氏に学び、1906年(明治38年)から2年間、鹿子木孟郎氏とともにパリに留学し、帰国後は、文筆活動を積極的に行い、「白樺」などでゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどの後期印象派を初めて日本に紹介しました。
 1912年(大正元年)、岸田劉生、高村光太郎らとフュウザン会という若手画家たちのグループを結成し、その後、大阪美術学校の創立に参加しました。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍、同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。
 1915年(大正4年)第9回文展に初出品した「朝」が初入選し、1916年(大正5年)第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選となり、1927年(昭和2年)第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となっています。

 1959年(昭和34年)4月に加須市の名誉市民第1号に推挙されましたが、同年5月3日、74歳で世を去りました。 

 足跡と功績
 美術辞典や他の文献、資料に記述されている与里の足跡と功績については、およそ次の5点に集約されています。

1.フランス留学

 与里が師の鹿子木孟郎に伴われて渡仏したのは、1906年(明治39年)2月、わずか20歳の時でした。その半年ほど前に京都に出て、浅井忠の門下生になったばかりの若い画学生にとって、異国への留学は相当な覚悟を要したでしょうし、また、そのための旅費と学費の工面には素封家の斎藤家も苦労したと伝えられています。パリに着いた与里は、先輩たちと同じくジャン・ポール・ローランスの主宰する画塾アカデミー・ジュリアンに学びました。

 当時はパリで学ぶ日本人の数も少なく(同門の安井曽太郎や梅原龍三郎の留学は後年のこと)、ジュリアンの日本人画家は、まだ技術の習得が不充分だったので、定例の素描コンクールでもなかなか上位に入れませんでしたが、与里はまもなく12番に入って頭角を現わしたといいます。しかし周囲の先輩たちは、いずれも年長だったためか、与里との交友は淡く、荻原守衛だけが唯一の親しい友人でした。そうした環境のなかで、与里は聴講生として ソルボンヌ大学でも学び、パリでの勉学を終えた後には、スペインやイタリア、オランダなどを巡り、ロンドン経由で横浜港に帰着したのは1908年(明治41年)9月のことでした。この約2年半に亘る留学生活は、与里本人にとってはもちろんのこと、帰国後の彼の活動を通じて、わが国の近代洋画の展開に大きな意味と影響を及ぼすことになりました。

2.フュウザン会の結成

 1912年(大正元年)の10月15日から11月3日まで、当時、銀座通の京橋寄りにあった読売新聞社3階の催し物会場で、フュウザン会と称する若手の画家たちのグループ展が開催されました。(名称の由来となったフュウザン(fusain)とは、フランス語で木炭の意。)中心人物であった与里の記述によれば、この展覧会開催の経緯は、概ね次のようなものでした。

 「私が個展を開くのに借りることにしていた会場が、ひとりではとても作品を並べきれないほど広くて困り果てていたところへ、岸田劉生と清宮彬の両君がやってきた。自分たちも展覧会を開こうと読売を訪ねたのだが、先約があるからと断られた。区切って貸してもらえないかと頼んでみたのだが、それも断られてしまったのでなんとかならないかという。それならいっそのこと3人一緒に、しかもそれぞれの友人たちも誘ってグループ展をやろうということになった。」ということでした。グループの結成そのものは、こうした偶然の賜でありましたが、ゴッホやセザンヌといった後期印象派の巨匠を信奉する血気盛んな若者たちの作品は極めて刺激的であり、文展系のアカデミズムこそが唯一の正当な絵画だと思っていた当時の画家たちや世間にとっては、「あれが絵か!」という大きなショックを与えたのでした。また、会期中のある日、夏目漱石と寺田寅彦が会場にやってきて、与里と高村光太郎の作品を購入してくれたので、二人は仲間たちに胴上げされたとのエピソードも伝わっています。

3.槐樹社の結成

 1924年(大正13年)3月、与里は牧野虎雄、高間惣七、大久保作次郎らとともに新たな美術団体、槐樹社を結成しました。毎年、公募展を開き、機関誌『美術新論』を発行した同社は、帝展の衛星的な存在として堅実な活動を続け、1931年(昭和6年)12月に解散するまでの間、洋画界に大きな足跡を残すこととなりました。なかでも活動の中心的存在であった与里の役割は大きく、同社の運営全般に指導力を発揮するとともに、『美術新論』の主幹としても大いに健筆を揮いました。

4.東光会の創立

 槐樹社の勢いは徐々に増していきましたが、画壇での力が大きくなるにつれ、内部に買収などの醜聞が囁かれはじめました。そのため与里たちは同社の解散を決意し、信頼のおける親密な仲間たちを募って新たに東光会を発足させました。この会の創立は与里にとって長年関わってきた画壇運動の総仕上げとなるもので、各地に結成された支部の育成等も含めて、晩年に至るまで愛情を傾け続けました。

5.文筆活動による啓蒙

 画家としての活躍に加えて、与里の功績として忘れることのできない事項のひとつに文筆活動が挙げられます。それは早くもヨーロッパからの帰途の船中に始まり、帰国直後は『早稲田文学』や『白樺』への寄稿によって、西欧の新しい芸術思潮をいち早く日本に紹介したことでした。この頃の与里は、新芸術の紹介者としては、当時、評論を専門 としていた高村光太郎にもまして、制作と文筆の両方で多くの青年たちに強い感銘を与えました。また、1919年(大正8年)にはじまる大阪時代には、創刊されたばかりの新聞(『大正日日新聞』)の学芸部次長として様々な記事を執筆する傍ら、『中央公論』 や『婦人公論』といった文芸雑誌にもしばしば寄稿し、美術や芸術のみならず文芸評論や社会時評の分野でも大いに活躍しました。

 斎藤与里の作品については、「加須インターネット博物館」をご覧ください。

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