作曲家/下總皖一

更新日:2020年09月01日

作曲家 下總皖一について

 下總皖一は明治31年3月31日、原道村(現・加須市砂原)に生まれました。

 地元の原道小学校を卒業後、父親が勤める栗橋尋常高等学校に進学。家から1里以上離れた隣町まで徒歩で通学しました。

 学校でオルガンの音色に魅せられた下總少年は大正6年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)へ進学、卒業後音楽教師となり、本格的に作曲活動を開始し、数多くの作品と実績を残しました。

 昭和36年64歳で他界しました。  

作曲家として

 「たなばたさま」「花火」「野菊」「ほたる」などの曲は、下總皖一の曲として有名ですが、実は、彼自身の作曲分野は極めて幅広く、合唱曲、器楽曲、協奏曲、校歌など、多岐にわたっています。また、筝の曲、三味線の曲など日本の伝統音楽についても作曲し、その数は2千曲とも3千曲とも言われています。

 また、自身の遺したノートなどから約500曲近くもの校歌を作曲しています。  

音楽家として

 昭和9年(1934)ドイツ留学から帰国し、翌10年に著した理論書「和声学」は、ドイツでの恩師パウル・ヒンデミットから激賞されました。その後次々と理論書を著し、「作曲法」「日本音階の話」「作曲法入門」「楽典」「音楽理論」「対位法」など日本の近代音楽の基礎をつくったとされ、『和声学の神様』と言われています。  

音楽教育家として

 東京音楽学校を主席で卒業し、各地の学校で教鞭をとりました。女子師範学校、各地の師範学校、小学校、女子高等師範学校など。また、留学から帰国後は、母校である東京音楽学校で、東京藝術大学では音楽学部長を務めるなど、数多くの俊英を育てました。

下總皖一略年譜
明治31年(1898年) 3月31日、埼玉県原道村大字砂原75(現・加須市砂原)に父吉之丞、母ふさの二男として生まれる。
明治45年(1912年)
14歳
3月、栗橋尋常高等小学校を卒業。
大正6年(1917年)
19歳
3月、埼玉師範学校本科一部を卒業。(現・埼玉大学)
大正9年(1920年)
22歳
3月、東京音楽学校を首席で卒業。記念奨学賞を受ける。
(現・東京芸術大学)4月、長岡女子師範学校に赴任。
大正10年(1921年)
23歳
1月、飯尾千代子と結婚。
9月、秋田県立秋田高等女学校へ転任。
秋田県師範学校付属小学校にても教鞭をとる。
この地で新居を構えた。
大正13年(1924年)
26歳
9月、栃木師範学校に転任。
千代子夫人病気がちのため伸枝と改名。
下總も覚三改め、皖一を名乗る。
本格的に作曲に取り組む。
昭和2年(1927年)
29歳
4月、上京。居住を牛込喜久井町に移す。
昭和7年(1932年)
34歳
3月21日、文部省在外研究員として、作曲法研究のため渡独。
ベルリンの国立ホッホシューレに入学。
パウル・ヒンデミット教授に師事。
昭和9年(1934年)
36歳
9月3日、滞独2年の留学生活を終えて神戸港に帰着。
東京音楽学校講師となる。12月、助教授となる。
昭和10年(1935年)
37歳
曲:三味線協奏曲
著:和声学
昭和13年(1938年)
40歳
曲:箏独奏のためのソナタ
著:作曲法
昭和15年(1940年)
42歳
文部省教科書編集委員となる。
昭和16年(1941年)
43歳
9月、品川区上大崎に転居。
昭和17年(1942年)
44歳
3月、東京音楽学校教授となる。
昭和19年(1944年)
46歳
著:日本音階の話
昭和25年(1950年)
52歳
下總皖一混声合唱曲集10巻の出版始まる。
昭和30年(1955年)
57歳
11月、文部省教科調査委員となる。
昭和31年(1956年)
58歳
10月、東京芸術大学音楽学部長となる。
昭和33年(1958年)
60歳
1月、東京国立文化財研究所芸能部長となる。
11月、文部省視学委員となる。
昭和34年(1959年)
61歳
6月1日、東京芸術大学音楽学部長を辞任。
教授として逝去まで同大学に在籍。
昭和37年(1962年)
64歳
7月8日、胆石、肝臓ガン、肝硬変の悪化で他界。

下總皖一資料コーナー

大利根文化・学習センター「アスタホール」内に下總皖一資料コーナーを設置しています。

下總が愛用していたピアノや肉筆の楽譜などの貴重な品や、校歌マップなどを展示しています。

下總皖一資料コーナー
下總皖一愛用のピアノなど

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