作曲家/下總皖一
作曲家 下總皖一について
下總皖一は明治31年3月31日、原道村(現・加須市砂原)に生まれました。
地元の原道小学校を卒業後、父親が勤める栗橋尋常高等学校に進学。家から1里以上離れた隣町まで徒歩で通学しました。
学校でオルガンの音色に魅せられた下總少年は大正6年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)へ進学、卒業後音楽教師となり、本格的に作曲活動を開始し、数多くの作品と実績を残しました。
昭和36年64歳で他界しました。
作曲家として
「たなばたさま」「花火」「野菊」「ほたる」などの曲は、下總皖一の曲として有名ですが、実は、彼自身の作曲分野は極めて幅広く、合唱曲、器楽曲、協奏曲、校歌など、多岐にわたっています。また、筝の曲、三味線の曲など日本の伝統音楽についても作曲し、その数は2千曲とも3千曲とも言われています。
また、自身の遺したノートなどから約500曲近くもの校歌を作曲しています。
音楽家として
昭和9年(1934)ドイツ留学から帰国し、翌10年に著した理論書「和声学」は、ドイツでの恩師パウル・ヒンデミットから激賞されました。その後次々と理論書を著し、「作曲法」「日本音階の話」「作曲法入門」「楽典」「音楽理論」「対位法」など日本の近代音楽の基礎をつくったとされ、『和声学の神様』と言われています。
音楽教育家として
東京音楽学校を主席で卒業し、各地の学校で教鞭をとりました。女子師範学校、各地の師範学校、小学校、女子高等師範学校など。また、留学から帰国後は、母校である東京音楽学校で、東京藝術大学では音楽学部長を務めるなど、数多くの俊英を育てました。
明治31年(1898年) | 3月31日、埼玉県原道村大字砂原75(現・加須市砂原)に父吉之丞、母ふさの二男として生まれる。 |
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明治45年(1912年) 14歳 |
3月、栗橋尋常高等小学校を卒業。 |
大正6年(1917年) 19歳 |
3月、埼玉師範学校本科一部を卒業。(現・埼玉大学) |
大正9年(1920年) 22歳 |
3月、東京音楽学校を首席で卒業。記念奨学賞を受ける。 (現・東京芸術大学)4月、長岡女子師範学校に赴任。 |
大正10年(1921年) 23歳 |
1月、飯尾千代子と結婚。 9月、秋田県立秋田高等女学校へ転任。 秋田県師範学校付属小学校にても教鞭をとる。 この地で新居を構えた。 |
大正13年(1924年) 26歳 |
9月、栃木師範学校に転任。 千代子夫人病気がちのため伸枝と改名。 下總も覚三改め、皖一を名乗る。 本格的に作曲に取り組む。 |
昭和2年(1927年) 29歳 |
4月、上京。居住を牛込喜久井町に移す。 |
昭和7年(1932年) 34歳 |
3月21日、文部省在外研究員として、作曲法研究のため渡独。 ベルリンの国立ホッホシューレに入学。 パウル・ヒンデミット教授に師事。 |
昭和9年(1934年) 36歳 |
9月3日、滞独2年の留学生活を終えて神戸港に帰着。 東京音楽学校講師となる。12月、助教授となる。 |
昭和10年(1935年) 37歳 |
曲:三味線協奏曲 著:和声学 |
昭和13年(1938年) 40歳 |
曲:箏独奏のためのソナタ 著:作曲法 |
昭和15年(1940年) 42歳 |
文部省教科書編集委員となる。 |
昭和16年(1941年) 43歳 |
9月、品川区上大崎に転居。 |
昭和17年(1942年) 44歳 |
3月、東京音楽学校教授となる。 |
昭和19年(1944年) 46歳 |
著:日本音階の話 |
昭和25年(1950年) 52歳 |
下總皖一混声合唱曲集10巻の出版始まる。 |
昭和30年(1955年) 57歳 |
11月、文部省教科調査委員となる。 |
昭和31年(1956年) 58歳 |
10月、東京芸術大学音楽学部長となる。 |
昭和33年(1958年) 60歳 |
1月、東京国立文化財研究所芸能部長となる。 11月、文部省視学委員となる。 |
昭和34年(1959年) 61歳 |
6月1日、東京芸術大学音楽学部長を辞任。 教授として逝去まで同大学に在籍。 |
昭和37年(1962年) 64歳 |
7月8日、胆石、肝臓ガン、肝硬変の悪化で他界。 |
下總皖一資料コーナー
大利根文化・学習センター「アスタホール」内に下總皖一資料コーナーを設置しています。
下總が愛用していたピアノや肉筆の楽譜などの貴重な品や、校歌マップなどを展示しています。
関連リンク
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更新日:2020年09月01日